• 創業明治四十年

    まだ男性はようやくマゲ頭から現代風の散切り頭が様になりだし、女性はまだ江戸時代と同じ日本髪と呼ばれる髪型で明治四十年に桃翠園は創業しました。前身が桃農家だったことから「桃」の字を用いてこの名前になりました。

  • ゴルフのカップ空けで開けた穴に苗を入れそこに水を含ませた砂を撒きそれで植えることと植えた直後の水まきを兼ねることにしました。なにせ広大な茶畑なので水も簡単には負けません。そこで苦肉の策としてこのような策を講じたわけです。

  • これからの展望

    お抹茶の品質の向上はもちろん続けていきますが、生産量については増やさずにいきたいと考えています。
    なぜならこれ以上手を広げると間違いなく手が回らなくなり、お茶自体の品質を下げることになると考えているからです。
    「近代的なシステムを入れれば」「機械の能力を上げれば」といったお話は頂くのですが、私たちは私たちの目の行き届く範囲内で精一杯美味しいお茶をお客様にお届けする。このことに全ての力を注ぎたいと思っています。
    「茶園から茶の間へ」この思想はこれからの100年も大事につないでいきたいと思っています。

  • 5年かけて生育

    お茶は苗を植えて次の年からお茶が取れるわけではなくある程度大きくなってからとれるようになります。一般的には4年で採れるようになると言いますが、出雲地方は冬の気温が低くなかなか思うように生育しません。4年目に何とか収穫しようと思えば出来たのですが、長い目で見てお茶の木が成長しきってから収穫を始めた方が木へのダメージが少ないと考え、さらに一年かけ立派に成長したお茶の木からお茶を本格的に摘み取り始めました。

  • 桃畑を茶園に変え、そこで出来た物を家庭のお茶の間へそのままお届けしたいという初代・岡 國次郎の「茶園から茶の間へ」思想を110年以上経った今でも守り続けています。

  • お茶の苗はいつでも植えてよいわけではなく春先の時期と限られています。これはお茶の木の育成によるもので、他の時期に植えてもうまく育たないのです。その為、ゆっくりしている時間はなく一日でどれだけの本数を植えられるかが勝負となってきます。
    なので多い時には一日に約6,000本以上植える日もありました。それでも1年では終わらず、3年かけて全てのお茶の木を植えました。その数433,700本!全て人の手で植え、苦労の末いよいよここからお茶の栽培が始まりました。

  • お茶はどこからでも摘んでよいわけではなく、出てきた新芽の部分のみを摘み取ります。特に上から2枚目までの茶葉が良質とされていますのでそこだけを摘み取るようにしています。この新芽の状態を一つの芯(茎)と二つの葉から「一芯二葉(いっしんによう)」といいます。

  • 初代は何代も続いた桃農園をお茶畑にし、2代目も國次郎の名を襲名し、誰も栽培していなかったやぶきた品種の栽培を始め、県内のお茶業界に新たな風を吹き込みました。3代目正明は、中四国地方で誰もやっていないお抹茶の生産を始め、4代目健悦は社内のお茶の小売りに力を入れ、全国に桃翠園のお茶を広めました。5代目大樹は今回の地元の様々な企業を巻き込んだスイーツの通販事業と店舗展開、出雲抹茶のブランド化に向けて今動き出しました。
    私たち桃翠園はこのように誰もしてこなかったことや常に新しいことに目を向け挑戦しています。

  • 植えたお茶の苗が全て順調に育ったわけではなく、全体の1割は枯れてしましました。単純に根付かなかったもの、弱かったものもありましたが、以前田んぼだったところに水が溜まってしまっていたのです。当然田んぼなので水はけは悪く、保水力のある場所なので、雨が降ると田んぼのようになってしまい、お茶の木が根腐れを起こしてしまうことが多々ありました。そこでその畑のお茶を一旦すべて別の茶畑に移し、重機で掘り起し、水が抜けるように改良したり、土壌改良を行ったりし、1年がかりで何とか茶畑として機能できる状態にしました。

  • 可搬摘採機

    読んで字のごとく持ち運びが可能な摘み取り(摘採)の機械のことです。3人がかりで摘み取りを行います。2人が前方で機械本体をお茶の畝を挟む形で持ち、自動で機械につく刃が動き、お茶を刈ります。刈ったお茶は機械から出る風で後ろに飛ばされ、3人目が待ち構える袋の中に入ります。3人の息が合わないとうまく刈れない経験が物を言う職人の世界です。

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